ウクライナ ブチャでの惨殺。怒りを通り越して息もできなくなる。なぜ人としてこんなことができる。なぜ彼らは自分の手でこれができる。ロシア兵と言えども親兄弟や家族があり、ほんの少し前まで、まさか自分がこんな気狂いな惨殺をするとは思いも寄らなかったはずだ。きっと、ほんの少し前まで普通の人だったはずだ。

戦争。この狂気のなかで、この閉ざされた数週間のなかで彼らは人間でなくなったのだろう。最初は、自軍が放ったミサイルによって、見えない場所で爆撃される人々をも想像できたはずだ。それが、自ら放つ銃弾によって死にゆく人を見ることができ、最後には、目を見開きながら、興奮とともに虐殺を行なったのだろう。

「戦争」でなければ、人はこれほどの狂気まで行きつけない。

そういう意味では、ウクライナ軍の放つ対戦車ミサイルだってあの戦車の中でロシア兵は死んでいるし、その両親や家族の人生を殺している。もちろん、もし自分がウクライナ兵であれば、怒りとともに躊躇なくジャベリンを撃っているいるだろう。しかし。

この時代に、こんな惨殺が起こるなんて。それでも。考えてみれば、本当はシリアでもソマリアでも、あまり気にしていなかっただけで、本当はこんな事たくさんあったのかもしれない。

ベトナム戦争も悲惨だったろう。さらに太平洋戦争、朝鮮戦争。信じたくはないが我々先祖の日本兵は、本当に胸を張れるのだろうか。ウクライナの人々を思うと今になって疑問が湧く。いまだ、あのベンチに座る少女像を執念とともに設置するのは、今日のウクライナの人々の感情と同じなのだろうか。この怒りも悲しみも葛藤も、心の置きどころがない。

知らなかった気づかなかっただけで、ロシアのプロパガンダをお笑い種な創作と呼び、それを妄信しているロシア国民をかわいそうな人たちだと見下すことができるのだろうか。

今も私たちは戦後から語り継がれるプロパガンダの中にいるのかもしれない。もしかしたら、プロパガンダによって自己を正当化しなければ、ロシアの人々も、我々を含めて侵略の歴史をもつ先進国の国民も、罪の意識で生きてゆけないのかもしれない。

すっきりするはずもないが、息苦しくていっぺん吐き出さずにはいられない。