一部のパチンコ店が自粛要請を受け入れずに営業を続けることに対して、自粛ポリスをはじめ多くの人々が嫌悪感を感じている。
パチンコ店の言い分はこうだ。
「自粛して店を閉めていたら店がつぶれてしまう」
それに対する反対意見は。
「多くの店が自粛している。コロナを広げるな!」
この状況を見ていると「トロッコ問題」を思い出す。
サンデル教授のハーバード白熱教室で有名になった哲学問題。
【トロッコ問題】
制御不能で暴走する電車の前方に5人の作業員がいる。このままいくと電車は5人をひき殺してしまう。一方、切り換えレバーを倒し電車の進路を変えれば、その先にいる1人の人間をひき殺すだけで済む。あなたはレバーを倒すか?
つまり、5人を救うために1人を犠牲にすることは許されるのか?という問題
想像の通り、多くの人は「レバーを倒す」と答える。
哲学者 ベンサムの功利主義(最大多数の最大幸福を求める)に基づく考え方となる。
では、犠牲になるその1人が幼い子供だったら、自分の親だったら?となると、問題は複雑化して、確信をもって答えられない人が大半になる。
パチンコ店のオーナーが「店がつぶれたら従業員や家族が路頭に迷う、だから仕方ないのだ」と言ったとしても、世間は “どうせパチンコ店” というイメージによって同情しないかもしれない。
社会(5人)よりもお前(1人)が犠牲になるべき論で。
もし、シングルマザーが経営する小さな店だったらどうだろう。
「店がつぶれたら私と子供が路頭に迷う、だから仕方ないのです」と言ったとしたら、世間は、自粛ポリスはどうするのだろう。
仮に「小さな店だから被害も小さいので道理的にギリギリOKかも」というなら、シングルマザーばかり100人で経営する大規模飲食店だったらどうだろうか。
トロッコ問題の前提は、確実な5人 or 1人の死。
対して、パチンコ店の場合、営業を続けたからと言って確実に感染者がでるとは限らない(可能性は低い)、一方、自粛したら確実に倒産が明白だとしたら…… 「営業自粛」とは、違法でもない超非合理な脅迫で自殺をしなければならない状況に等しい。
一般的に、完全な営業自粛が1~2ヵ月までなら、社会利益を優先する店や会社も多いだろう。
しかし、1~2年ならどうか。それは100%倒産を自ら決めることに等しい。そんな時に社会利益を優先する店や会社は皆無に思える。
両極論の思考で、何が境界線になっているのかが見えてくる。
もちろん、営業自粛は法律問題ではないが、こういう難問に結論を出すのが、法律に基づいた裁判ということなのだろう。
また、国で言えば憲法というところか。
とはいえ、根拠となる明文化された法律や憲法すらも、当事者の自己都合によって解釈を変えがちだが。
自粛ポリスに同意であれ不同意であれ、少なからずすべての人がミニポリスではある。
すべての反応、コトの見方は、自己の価値観(正義感、倫理感、損得など)に基づいて生まれるのだから、ミニポリスと自粛ポリスとの違いは、社会表現の行動に出るかどうかだけの違いだ。
ある人は「今、世界はコロナテストを受けている」言う。
こういう時に、国としての有事体制や、企業としての資本準備。国民性、大統領・総理大臣、トップの考え方、器が色濃く現れると。
これは、お金もそうで、莫大な大金を持った時、ビル・ゲイツのような世界に尽くす人もいれば、色んな人がいる。
バカが大金を持ったら、大バカになるだけ、と言われる所以。
例の如く、話が広がりすぎたので、この辺でドロンです!