何となく、出てくるはずもない74歳の母の名を検索してみたが、同性同名の他人のFacebookやTwitter、見知らぬ顔写真がいくつか表示されるだけだった。
もうこの世には 物理的にいない だけでなく、記録にもいない。
だから、ここに書いておきたい。どういう人だったのかを。
円山洋子(旧姓:中川洋子) 福井県敦賀市出身
生年:1943年2月2日 - 没年:2018年1月22日(74歳)
漁師の家庭に生まれた母は、看護婦になることを目指して、中学卒業と同時に単身15歳で兵庫県尼崎市に出てきた。
尼崎市の小さな病院で看護婦として勤めていた20歳の頃、入れ墨は有るが小指の無い28歳の男が入院してきた。
そんな男と暮らし始めて、2年後に生まれたのが私だった。
※その後、父はカタギの長距離トラックドライバーになった。
風呂無し長屋住まいだったが生きるに不自由なく育ててくれた。
母はとても仕事熱心な人だったし、看護婦として自分の能力にも自信を持っているように見えた。
手術場で、新人の医師や技術力のない医師を指導して手術を進めた話をよくしていたからだ。
しかし、現場をテキパキと回し、長年勤めても、母はずっと主任のままだった。
学歴のない准看護婦だったからだ。
やがて私と弟が成人したころ、母は働きながら高校に通い始めた。
その後、何年もかかって大学も卒業した。
母が、参考書片手に家で勉強している姿を思い出す。
実は、父もよく勉強していた。
貧乏な家の長男で、小学校も卒業していないので社会で色々と恥をかいたのだろうか。いつも、辞書片手に原稿用紙に何かを書いていたのだが、とても字が綺麗だったのをよく覚えている。
そんな両親の姿を見て、大人って仕事が終わったあとも家で勉強して、出世していくものなんだと知った。
そんな両親を尊敬していた、というか立派な人だと感じていた。
母は婦長となり、やがて60歳で定年を迎えたが、その頃から、言動や行動が少しずつおかしくなっていた。
歳のせいかと思っていたが、いつも使う道で迷ったり、被害妄想のような言動があったりで、病院で調べてもらうと、脳が萎縮してアルツハイマーになっていた。
徐々に色々な問題が増えてきて3年ほどたったある日、夜中に徘徊して、5kmも離れた場所で「足を骨折し倒れている」と警察から連絡が入った。
緊急手術をしたが、その日以来、もう立つことはなかった。
介護レベルもあがり、自宅に戻すのも困難になったので、退院してそのまま特別養護老人ホームに入った。
それからは、見舞いに行くたびに、母は、記憶を失っていった。
昔のこと、さっきのこと、そして声の出し方さえも忘れてゆき、ついには私が息子であることも忘れてしまった。
実際に、私の中で、母が亡くなったのは5年前だ。
父は、私が25歳の時に亡くなった。
母も、私が53歳の誕生日を迎える直前に亡くなった。
子供というのは、親を悲しませないために立派に社会で生きているフリをするし、良い子に育ったと思われたくて、褒められたくて、安心してほしくて、頑張るものだと思う。
ちゃんと仕事を続けるのも、家族を持つのも、実は、親を安心させたくて頑張るのだろう。
不思議だが、53歳になった今でもそう思うのだ。
両親ともこの世にいなくなった今、何のために立派に生きるのか。
いや。もう十分に、両親を安心させられたと考えよう。
父の自慢の息子であり、母の自慢の息子であったはずだ。
お疲れさんでした色々とありがとう。またいつの日か。
Good bye mon. Good bye dad.