沖縄で買ったパイナップル。朝から一個まるまる食べきってしまったわい。

それにしても気候って、心身にすごく影響するものなんだなと思う。冬の寒さで体も思考も縮こまっていたのが、フワーっと心身開放された実感がある。

今回、ゴルフ場や飲食店、飲み屋さんでひとつ感じたことがある

それは、愛想が良く、フットワークも軽く気持ち良い対応をしてくれる人と、愛想もなく必要最低限の対応しかしない人がいて、そのギャップを感じたこと。

当然、沖縄に限った事じゃないけど、サービス業の人と接する時間が長かったから。

毎日、愛想の良い笑顔で明るく過ごしている人と毎日、愛想もなくテンション低く過ごしている人。この二人の人生はどういう風になっていくのだろう。

人生の善し悪しは人によって判断材料が違うから一概には言えない。

愛想良いのに何かと控えめで生活が苦しい人もいれば、無愛想なのに我が強く自己主張して稼いでいる人がいる。

愛想良いから気心しれた友達や仲間に囲まれる人もいれば、無愛想だから妻含めすべてが利害関係になっている人もいる。

ただ、それぞれ、日々の体験はずいぶんと違うのだろうなとは思う。

愛想の良い人は、相手も愛想良く対応してくれる。だから明日も愛想が良い。
愛想の無い人は、愛想良い人でさえ不機嫌に変える。だから明日も気分が悪い。

ところで、サービス業における、愛想の良い人と愛想のない人の違いは何だろうか

見た目で分かりやすいのは “笑顔” とか “心配り” だ。
だけど、本質はそれではない気がする。

一言でいえば、”仕事” と “人生” を別のものとしてとらえているか否かの違い?

愛想のない人は、「これが仕事だから」と言って、やらなきゃいけない事をやる。
愛想の良い人は、「これが私だから」と言って、仕事も人生もやる事に違いはない。

例えば、休日にスーパーで買い物をしている時に陳列棚から物が落ちていたとする。
愛想の良い人は、自分と関係なくても当たり前のようにさっと陳列棚に戻すだろう。
愛想のない人は、自分が落としたわけじゃないから素通りするかもしれない。

言うまでもなく、仕事をしている時間は、人生という時間の中の一部分であり、分ける事自体、論理的にも矛盾している。
1日とは、分母に24時間の人生があり、分子に○時間の仕事、○時間の睡眠、○時間の遊びなどが入っているだけ。

あらためて「愛想」という文字を見つめていると、そこに書いてある気がしてきた。

つまり「愛想」とは、人から愛される人相であり、人を愛する人相ということかも。人相が人生をつかさどり、人生が人相を形成する。どっちが先でも同じになる。そういう意味で愛想良い演技から始めても良い。演技も続けりゃホンマもんだしね。

とか、解ったような事を言いつつ自身を振り返えると色々愛想ないことが思い当る。
特にFacebook。あの愛想が続かない。どうも愛想の振りまきあいが気持ち悪くて。

話があっちこっちに行って、まとまりが無くなってきた。

要は、愛想の良い人と愛想のない人の人生は、ずいぶんと違った体験だろうなと。そして愛想の良い人の人生の方が良かろうと。

「これが仕事だから」でなく「これが私だから」で、仕事と人生をMIXする事かなと。