週明けの朝から忙しく、夜も酒が入ったので家に着いたらバタンと寝た。
目覚ましもかけずに寝てしまったけど、朝5時ぱっちり目が覚めこれを書いてる。

不思議な夢を見た。

小学2,3年の頃の息子が(今は21)ちょこんと座って私に微笑んでる。
1分と黙っていられないジっと止まっていられない、子供らしい子供の頃の彼だ。

私は、いとおしくて、息子をギュッと抱きしめたくなるが、それができない。彼との間にガラスがあって、彼を抱きしめに行く事ができないのだ。だから、お互いほほ笑みながら座っていることしかできない。いとおしくて、悲しくて、泣きながら目が覚めた。

実は、禅合宿から帰ってきて2度泣いている。歳を取るとどうも涙腺が緩む。

自分が子供の頃の出来事を久しぶりに思い出したから。それは、今も鮮明に記憶に残っている、母の愛を感じたある夜のできごと。

小学校低学年の頃、父に叱られ、その勢いで裸足のまま家を飛び出した。母が私の名前を大声で呼びながら追いかけてくるので、民家の隙間に隠れた。母が泣きながら私の名前を大声で叫んでいる。

鬼ごっこで絶好の隠れ場所をみつけた時のように、ここなら絶対見つからないという安心感と同時に、ここにいたら誰も気づいてくれないという不安が入り混じっていた。
母の声が再び近くなった時、隙間からノコノコと出て「ここやでぇ」と言った。

家に帰って、2段ベッドの上段に昇りヒクヒクと泣いているとき、母は私の体を優しいリズムでポンポンとたたきながら子守唄をうたってくれた。

「ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよい子だ ねんねしな」

ふとんの温もりと母からの温もりで、これ以上ないほどの安らぎを感じた。

禅合宿で住職と個別対話のとき、「私は死ぬことに全く恐怖を感じていないし、いつ、いや今日、人生が終わったとしても悔いは感じない」と言った。それは普段から思っている事なので偽りなくそう言ったのだが、わずか2~3日後の今、どうしようも無い後悔が全身を包んでいる。

あの頃、息子をもっともっと抱きしめていたらよかった。

強い背中を見せるより、前を向いて抱きしめればよかった。

私のことを認識できている間に、もっと、母に感謝を伝えればよかった。立派な背中を見せるより、前を向いて感謝を伝えればよかった。

悔しい。過ぎ去った日々に女々しいまでの後悔を感じてしまっている。だからと言って今週末帰ってすぐに、大人になった息子を抱きしめることも無いだろうし、老人ホームにいる痴呆の母を抱きしめることもしないのだろう。俺はバカだ。

おそらく、禅合宿である人が語った話がきっかけだろう。

彼は、今、帰省するだび、両親に感謝のことばを素直に伝えていると言った。それに比べ、自分は両親に感謝らしい言葉も伝えなければ表現もしてこなかった。

今になって気付いたことがある。

後悔とは、自分がやってきた事に感じるものではない。
やれたのに、やらなかった事に対して感じるものだ。

まさしく、あぁしとけばよかった、こうしとけばよかった。というもの。

やれたのに、やらなかった自分。愛があったのに、伝えなかった自分。それが後悔だろう。