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思考の散歩3 思考は喜か悲か

2000年生まれのロン。リビングでほっこり居眠り中。
誰でも一度は思った事ないだろうか。
犬とか猫って、本能的というか面倒なこと何も考えず生きてるから羨ましいなって。
本当のところ、どうなんだ。
人間は “思考できる” という素晴らしき能力、または不幸な運命を背負っている。
思考できるからこそ、幸せや悲しみなど人間らしい生き方ができるのだと言う肯定。
そもそも思考がなければ、幸せや辛さなどという存在にすら気付かずに済む否定。
痴呆症の施設にいる母は静かな動物のようだ。
今の自分の事、人生の様々な記憶、私たち息子の事すら、もう記憶にない。
でも・・・母は不幸なのだろうか。
いや、今の姿を見ていて、母は可哀そうな人だ…とは思わない。なぜなら、思考、あるいは物理的な脳細胞が無くなっており、母の心の痛みが私に伝わってこないからだ。
可哀そうだったのは、痴呆症が始まって完全に分からなくなるまでの期間だった。
最初は物忘れが多くなったという自覚程度だったものが、ある時、短期間の記憶がすっかり抜け落ちるという事が多くなりやがて自覚しはじめる。
正常に思考できる自分と、記憶のない自分が混在する時期。そこが最も辛かったろう。
“思考できる” という能力は、あればあったで良いし、最初から無ければ、こんな話すら必要なく、無くても良いのだ。
いや、思考があったからこのような文明が開かれ・・・それをマッチポンプという。
しかし、”思考できる”という初期設定は変えられない。そんな事が問題なのではない。
母の姿を見て思う。
一番辛いのは、思考を自分の手中で制御できない状態になった時だろう。
恐怖や不安などの感情は、通常、さらに上の思考によって抜け出す事ができる。
だが、その思考が弱まった時、人は、不安や恐怖から抜け出せなくなる。
おそらく、人生を、あるいは生きる事そのものを投げ出してしまう、というのは、思考を自分の手で制御できなくなった時だろう。
人間が、生きていていツライと思う時はどういう時か。
それは、”ツライと感じる思考” の上にある 第三者的に自分を制御する”思考”が持てなくなった時だ。アカデミックには「メタ認知」といわれるもの。
人によってはどうでもいい話だろう。
でも私は、あらゆるテーマにおいて、枝葉をそぎ落とし “本質の幹” に辿り着きたい。
とりあえず、今日の結論を言って完結する。  「メタ認知」 最高イエーイ!
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