2006年7月5日。 よく知っている知人が亡くなった。

友人と呼べるほどの間柄じゃなかったけど、ここ数年は勉強会などで、かなりの時間を共にしてきたし、二人で食事したことも二度ほどあったので、お互いのことはよく知っていた。

彼は40歳、私は41と年代が同じだし、ビジネスに対する考え方も比較的似ていたので、とても親近感を持っていた。

それなのに、まだ40歳なのに、癌で逝っちゃった。
お通夜に行ってもあまりにも実感がわかず、棺桶に入った彼を見ても不思議と涙が出なかった。と言うより、彼の顔を見ながら変なことを思っていた。

なんか、壊れたハードディスクを見ているような気分だなぁと

彼は、たくさんの時間とお金を費やして、ビジネスの知恵や、家族との想い出、精神的快感を脳に刻み込んだ。それなのに、彼の脳は止まってしまった。

もう、写真フォルダにアクセスして、素敵な想い出の画像を呼び出したり書き込んだりする事はできない。
もう、Excelファイルにアクセスして、一瞬の経営判断をすることはできない。
もう、データベースから過去の事例や、上手くいく戦略を呼び出すことはできない。
もう、人生哲学の漠然としたマインドマップを表示することはできない。
もう、ビデオファイルで子供達との思い出や、遙か昔、ファーストキスの心高鳴る瞬間を見直すこともできない。

もう、もう、どれだけ大切にしていたデータであれ、壊れたハードディスクからは二度と呼び出すことはできない。

彼は死ぬ時、何を思ったのだろう。

ここ半年は再入院して余命も知らされていたそうだけど、最後には、ほとんど乗る機会のないベンツも買ったらしい。それまでは、どれだけ稼いでいようと、古い車に乗り、低家賃の家に住み、自分の慢心をストイックなほどセーブしていたのに。

ビジネスのことで、大切なことを学んだり、大きな気づきを得た時には、色々教えてくれたのに、何でアンタ、「死ぬ時に何を思うのか」という大切なことを教えてくれないんだ。

結局、人間は、将来必ずクラッシュするハードディスクに対して、シナプスに電流を流し続け、あらゆるデータを書き込み、削除し、整理して、修正して、最後の一瞬まで、素晴らしいハードディスクのデータを創り続ける生き物なのか?

自分のディスクにどれだけ書き込んでも、いずれフォーマットされて誰にも読めなくなってしまうんだったら、自分一人が楽しむんじゃなく、家族や仲間とハードディスクのデータを共有できるように生きたいなという気もする。

サーバーのように、想い出や、知識や、喜びは、みんなと共有できるのが、素晴らしい人生かもしれない。

彼は、そういうことを教えてくれたのかなぁ。

おーい! 俺もいつかそっちに行ったときには、また遊ぼな。マジで。今頃、悲しくなってきたわ。