たとえば会話のなかで、「きれい」 または 「美しい」という言葉を発したとする。
この似通った2つの言葉を使い分けるとき、多くの場合は、理屈で使い分けているのではない。 なにか瞬間的に、ニュアンスが適切なほうを選び出しているように思う。
その漠然としながらも、人と共感できるニュアンスはどこからくるのか。
岡本太郎 『強く生きる言葉』より
「きれい」
きれいな女のひとに会っても、ただきれいだなと思うだけで、さして気にとめないことが多いのに、いっぽう、きれいだとも思わないのに何か引きつけられる人がいるだろう。
そして、その人がすばらしい女性だったら、つきあっているうちに、内のほうから美しさがかがやいてくるような感じで、ついには、ほんとうにきれいであるような気さえする。
そんな人は、美しい。
昔から、よくこんな事を考えていた。
私が、「あの子ええわぁ」とか「あんな人が好きだ」と周りの人間に言うと、「え~、ストライクゾーン広いなぁ」とか「えっ?何で?」なんてよく言われる。そう言われるたびに、「まぁ好みやねんから、しゃーないやん」と茶化しているが、心のなかではいつも、こうつぶやいていた。
「俺には見えるねん」
岡本太郎の「きれい」を読んだとき、自分の中で確信が持てた。「綺麗」では心が動かない。 「美しい」には心を奪われる。
言葉をちゃんと定義してみる。
すると、ふだん、なにげなく無意識に使い分けていた言葉たちが急に、凝縮された意味をもちはじめ、輝き出す。 そして、正しく使い分けることに、こだわりたくなる。
ひとつの言葉を深く考え抜き、すっきりと定義してみせる人。私がいつも人にすすめている田坂広志氏がその代表例だろう。田坂広志氏は、「幸せとは何か」「なぜ働くのか」という、誰もがわかっているようで、実は誰もわかっていないテーマに、すっきりとした答えを出してくれている。
言葉に定義を持ち、丁寧に話す人。そういう人の話は重みがある。
自分も、いい歳になるまでには、何とか身につけたい。
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第2日本テレビのサイトにて、岡本太郎の面白いサイトがあります。
面白いけど、ビンビンと体に入ってくる言葉があります。
Flashのサイトなので、直リンクが貼れません。
下記のサイトから、爆発屋を探してクリック!
http://www.ntv.co.jp/asunoshinwa/index.html
なんだか、岡本太郎がこの世にいないと思うと寂しい。
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