「自分」とは、いったい何なのか。
たまに、このテーマについて考え込む時がある。
この「体」という物体が自分なのか、いや頭の中にいる「思考」又は「脳」が自分なのか。この事を考え始めたのは、やはり「脳死」について自分なりに考えてみたことがきっかけだった。
「脳死」とは、人間の死なのか。
まず、万人が認める「生きている」という状態とは下記の状態と言えます。体は正常に動いている AND 脳は正常に働いている。
下記の状態はどうだろう。
体は人口臓器で動いている AND 脳は正常に働いている。もちろん、誰もが「生きている」というでしょう。
では、体は生命維持マシンのポンプで無理やり心臓を動かし(電源を切れば即止まる) AND 脳は死んではいない、これはどう考えるのか。このあたりから、意見はわかれ始めるかもしれない。
このシーンは「脳死」よりも、圧倒的に多い。
まさに、私が25歳のとき、目の前の父がこういう状態だった。
生命維持装置を使っても、心臓が止まり、心臓マッサージをする。かろうじてパルスが遅いリズムでピッ、ピッと鳴り出す。またしばらくして止まる。今度は肋骨が折れるほど両手で押す。
1回押すと1回パルスがなる。その繰り返しが何分も続く。医者は家族の判断を待っている。
そして私たちは「もう、やめてください!」と泣きながら叫ぶ。
その瞬間にパルスは横一線でピーっと鳴り続け、父の死が確定した。
体の自律動作が止まれば、脳も止まる。
両方止まるのだから、死と言えるかもしれない。
しかし「脳死」とは脳が死に、体は維持装置で動いている状態。
脳の指令なしに生命を維持する自律神経、脊髄だけでかろうじで生きている状態。これは、感情的に死とは認めにくい。さらに、脳死状態を5つの数値で判断するというのが、いかにも現代の人間的。
でも、ここで書きたいのは、脳死についての私的見解ではない。
本当に、人間とは、体と脳の2つで語れるのかということ。
まず、私たちが自分と表現するとき、「体」を意識していることが多いと思う。それは、逆に、「あなた」という時、目に見える相手の体を指していることから、そう言える。
誤解のないように願いたいのですが、たとえば指でも足でも、もし体の一部を無くしたとき、自分というのは「減る」のかというと、もちろん「減るわけない」となります。
では、自分の体すべてが消滅したとき、自分はまだ存在するのかというと、誰もが「自分が存在しているとは思えない」となるのではないでしょうか。
もし、現状を100として消滅を0とするなら、身体を減らしていって80の人間とか、50の人間なんてものは当然ない。
あるか、ないかです。現状はOnで消滅がOffです。であるならば、どこかで切り替わるポイントがあるのだと思う。
そのポイントは、おそらく「脳」でしょう。
たとえば、体はすべて残っているが、脳だけすっぽり取り外したとしたら、それは「自分」が存在していない状態と言えるかもしれない。
では、「自分」とは「脳」という物体なのか。
私はそれも違うような気がしてならない。
「脳」は単なるインターフェースだと思うのです。
インターフェースとは、何かと何かを結ぶもの。では、何と何を結んでいるのか。
片方は、「意識」です。もっと言うと「顕在意識」です。
顕在意識は、自覚もできるし、外にも伝えられる。明らかに、脳の一面は「意識」を外部表現をする装置です。指を曲げるのも、目を動かすのも、脳から指令しています。
具体的に脳がおこなっているのは、アクチンとミオシンというタンパク質のコントロールですが、脳がなければ表現ができません。そういう意味で、脳は外部と内部を結ぶインターフェースと言えます。
では、もう一方は何か。それが、「自分」だと思うのです。
脳は「意識」と「自分」を結ぶインターフェースなので、脳が止まれば、他人にとって存在が無くなったように見えるのではないかと思います。
本当に、人間とは、体と脳の2つで語れるのか。私はNoだと思っています。
人間とは、「体」と「脳」と「自分」の3つで構成されていると思っています。
PCで言えば、体は表現を伝える「ディスプレイ」、脳は「OS」です。脳は、よくCPUと表現されるけど、CPUはハードの一部に過ぎないと思う。そういう意味ではHDやメモリも脳の一部、海馬などに例えることができるけど、脳の本質はハードと何かをつなぐインターフェースだと思います。
そして、「自分」とは、まさしく自分です。
ディスプレイに表示をするためにOSを使って指示している人間がまさしく自分です。
その「自分」というのを、世の中では色々な言い回しで表現されています。
「魂」 と言うのもあるでしょう。
「霊」 と言う人もいます。
「Soul」とかね。
でも、私にはどれもしっくりこない。
だったら、どう表現するのか。それは、現段階でまだわかりません。
それまでは、「自分」と表現したい。
だからこそ、「自分」とはいったい何なのかを考えて止まない。