趣味:本と暮らそう

幸福の資本論

『幸福の資本論』橘玲(著)でいくつか感じることがあった。

一つは、「限界効用の逓減」

暑い日の喉がからからに渇いたときに飲む生ビールのひと口ほど美味しいものはないが、この美味しさは2杯目、3杯目とジョッキをお代わりするにつれてなくなっていき、やがては惰性で飲むだけになってしまう。
あらゆるものにおいて、手に入れたときをピークとして高揚感も効用も逓減していくむなしさがある。

これを何度も経験しているうちに、「次なる大きなものを手に入れても、どうせまた同じような気持ちになるのだろう」と思えてくる。
いったい幸福のゴールはどこにあるかと天に問いたくなるのだが、ゴールはない。
幸福感は、何かを手に入れた瞬間ではなく、手に入れようとして進んでいるプロセスにあるのだということを思い起こさせてくれる。

もう一つは、「自分探し」について

「自分探し」はすっかり陳腐化し、いまや鼻で笑われる言葉になってしまったが、それでも人々の心のなかには「ほんとうの自分」はどこにあるのかという感覚がある。

いったいどこに? それは自分自身の過去にある。
小学生、中学、高校、大学生。その時代に友だち集団の中にそれぞれのキャラがある。
不思議と各自のキャラはかぶらないようになっており、リーダーキャラ、おもろい奴キャラ、スポーツキャラ、秀才キャラ、努力家キャラ、無口キャラなどなど自分のキャラが自然と確立される。

もちろん、小学生時代と中学生時代でキャラが少し変わったりもするが、あの時代、自分のキャラはどういうものだったのかを思い起こしてみる。

「ほんとうの自分」とは、幼い頃に友だちグループのなかで選び取った「役割=キャラ」だ。

ところが社会にでると、リーダーキャラでないひとが年功序列方式で上長の役割を担ったり、秀才キャラのひとが体育会系上司から気合と根性論で熱く語られたりなど、処世術として「キャラ違い」を演じ続けなければならないこともある。
そのとき、ひとは「ほんとうの自分じゃない」と感じる。

地元のマイルドヤンキーが「自己実現」で悩まない理由

それは、彼らが少年時代からの強いつながりのなかイツメン(いつものメンバー)として、大人になった今も同じキャラでいられるから。
夢は語りあうが、その輪から飛び出して自己実現を目指すことはない。地元に家を建て、それぞれが家族を持ちながら昔ながらの友だち関係を続ける。
そこに「自分探し」に悩む必要はない。それはそれでいいのだ。
自己実現で成功して金持ちになる幸せも、地元から離れず並の人生を仲間とおくる幸せも、どちらが良いというものでもない。

幼い頃、学生時代の自分のキャラを思い起こしてみよう。
それに沿った職業や役割、社内でのキャラ、社会でのキャラであれば、違和感なく人生を過ごしていける。

もし、「キャラ違い」を演じ続けているのなら、ずっと我慢や違和感、失敗を繰り返さなければならないのかもしれない。
長い人生を考えれば、人生のどこかでキャラ戻しが必要だろう。

自分自身のことはどうか

おそらく、それほど元キャラと違いはないのかもしれない。オンとオフ、ビジネスとプライベートもキャラは変わらないと思う。
だから「自分探し」や「ほんとうの自分とは」などとは、あまり考えたことがない。

ただ、まだ「自分の可能性」の2割ほどしか使っていない気はしてならない。かたや、その2割で、幸せの8割をすでに得ているような気もする。
だから、全部使えたとしても、残り8割の秘めた力を出し切って、最後の2割の幸せを得るような、燃費の悪い作業のようにも感じる。

パタゴニアの創業者イヴォン・シュイナードが書いた『社員をサーフィンに行かせよう』で、確か「8割主義」というような言葉が出てきたと思う。
多趣味のイヴォンは、色々なことをやろうと思えば8割の習得で満足すること。残りの2割は、それまでの何倍もの時間を要する一流プロフェッショナルの世界だ。と。

さてさて、どうしたものか。

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